☆彡映画「スージー・サーチ」

 テンポよく飽きることなく見られた。変な人ばかりが登場するけど

それなりに人間の弱さや闇を描けていて、まあまあ面白いよくできた脚本

だったし俳優陣も大変よかった。

 だけど「配信で観てもよかったかな」と思ったのはなんでだろう。

 前回紹介した「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」も

人間同士の深いつながりを描いているにも関わらず、テンポよく軽い感じで観られる作品だった。

「スージー」が配信でもよいと感じさせ、片や「ホールドオーバーズ」が

2週続けて映画館で観るという行動に私を駆り立てたのはなぜだろう。

「映画的なるもの」がそこに存在しているか否かの違いではないだろうか、と私は思う。

「映画的」とはどういうことか……。情緒? 芸術性? 壮大さ? センス? 

わからないけど、そういった諸々を総合した「映画の神様」といったようなものなのか。

 大きな事件のあるなし? いや違うな。だって「スージー」では誘拐事件や殺人事件などが起こるけど、「ホールドオーバーズ」では何も起こらない。

 余談だが、私は無宗教だが「神様」という言葉・概念は信じているしよく使う。

 三味線がよく鳴る場所には「三味線の神様」がいる。

 元々は三味線の神様がいたけれど途中でいなくなった場所もある。そこにはもう行かなくなった。

「スージー」の最後の場面で「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉を思い出した。

「天の網は目が粗いが、悪事は決して見逃さない」という意味で、元々は

老子の言葉。人形浄瑠璃文楽の「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」のモチーフにもなった有名な言葉である。それにしても「天の網」と大阪の地名「網島」をかけるとは、近松門左衛門のセンスのよさよ。

 念のため、「スージー・サーチ」は面白かったし娯楽作品として見るには

悪くない。でも映画ファン受け度は低いかもしれないな。

 途中の一場面で「バクダッド・カフェ」を思い出し、ラスト近くの場面で「ダイハード(1作目)」の最後を思い出した。この監督はホントに映画が

好きなんだなあと思ったけど、私の考えすぎかなあ。