☆彡マイクロアグレッション論議の罪

 マイクロアグレッションということが最近話題になっている。悪意のない差別、偏見に端を発する発言のことで、たとえば「アフリカ人は足が速い」と決めつけたり、外見が日本人ぽくないけど日本で生まれ育った人に「日本語が上手ですね」と言ったりすること。このような発言が少しずつ相手の心をむしばみ、最終的にはジェノサイドに結びつく行為だという意見すらある。

 私は、このマイクロアグレッションに気をつけろという考え方こそがとても危険で、エスカレートすれば表現の自由の侵害やコミュニケーション不全にもつながりかねないと思っていて、なんとか阻止すべきだと思っている。

 まず、発言の受け手は発言者に悪意がないことをその場の雰囲気や相手との関係性から読み取る必要がある。もし悪意あっての発言であるなら完全に無視するとか反論するとか皮肉で返すとか、いろんな方法で対抗すればよい。そういう力を身につけていくことは今後の人生においてとても役立つだろう。悪意がなくても自分がイヤだと思う発言があったのなら、その頻度や相手との関係も考慮に入れた上で自分の気持ちを相手に伝える努力、または自分の中でうまく消化する努力をするのがよいと思うし、それに第三者の力を借りるのもよいだろう。

 敬意を持って、あるいは素直な驚きや親しみを込めて「日本語が上手ですね」と言ってくる人には「ありがとう、目は青いけど日本生まれなんですよ~。英語は全然話せません」とジョークっぽく返してもいいし「女性なのによく食べるね」と言われたら、私ならたくさん食べるのはカッコイイと思ってるので、うれしい。差別的と感じる場合の何割かは言われた側にそのことに対するマイナスイメージがあるのが理由だということも考えられる。

 昨今、いろんなことに苦手意識を持つことに関して、それは個性だから無理して克服しなくてよいといった論調が目立つ。それによって当人が救われる場合も確かにあると思うが、接する他者に余分な負担をかけてはいないだろうか。マイクロアグレッションに関する最近の論調にも似たようなものを私は感じる。初めてこの話題をテレビで見た時に、これは大変なことになっていると感じて寒気がした。マイクロアグレッションに当たらないかということに常に意識を向けながらビクビクして話せというのだろうか。これは言葉狩りの一種である。そもそも、知性や教養のある人は初めからそんなこと本能的にわかって言葉を選んでいる。

 

 このブログを書くにあたって、マイクロアグレッションに関する新しめの話題をネット上でいくつか読んだ。書いた後、Wikipediaでマイクロアグレッションを調べてみた。Wikiによれば「意図的か否かにかかわらず、政治的文化的に疎外された集団に対する何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度のこと」とあった。なんか全然違うやん。

 今は「男性なのに料理ができてすごい」もマイクロアグレッションだといわれているが「男性」は政治的文化的に阻害された集団ではないし「料理ができてすごい」は見下しでも侮辱でもないからマイクロアグレッションの定義には当てはまらないことになる。ジェンダーとしての思考も加えられたのは2000年代に入ってからのようだが、いずれにしても「日本語がうまい」「料理ができてすごい」は単なる誉め言葉なのでそれだけでは対象にならない。何度も同じことを言われ続けて受け手が疲弊してしまっているとすれば、発話者がしつこいとか通り一遍の話しかできない人だとかいった別の問題であるといえるだろう。

 Wikipediaの後半では、マイクロアグレッションを重視することは、私が上に述べたような個人の精神的発達やコミュニケーション能力の発達について阻害する結果になる可能性が高いこと、特に大学生など若い人の成長においては心配なことなどを提唱する学者なども多いことが述べられている。ご興味のある方はぜひ一読されたい。

コメントをお書きください

コメント: 3
  • #1

    kirokuya (土曜日, 14 3月 2026 20:29)

    少し考えてみた。

    まず、普段使わない単語をWikipediaのAIに訳してもらった。

    マイクロアグレッション:悪意なく相手を傷つけたり、不快にさせたりする差別的言動。
    ジェノサイド:属性の異なる集団を破壊する意図をもって行なわれる大量虐殺、迫害。

    本題から少しはずれますが、少なくとも20~30年前までは、日常会話として使っていた言葉や言いまわしが今、ハラスメントの対象になったりする。実に窮屈でたまりません。
    マイクロアグレッションもしかり、対話している相手との関係性や距離感にもよるのでしょうが、なんで一旦頭の中で吟味して、言葉や言いまわしを変換せなあかんねん!邪魔くさい!と思う回数が増えてきたような気がします。筆者ご指摘のように、表現の自由の侵害、コミュニケーション不全、はたまた、美しい日本語文化の破壊にもつながりかねません。

    また、差別と区別は違う。と声高におっしゃるTV文化人、コメンテーターがいらっしゃる。そんなことどうでもよい。線引きしてることに変わりはないのだから…。有史以前の石斧で戦ってた時代から、核兵器を保有する現代まで、属性(国、人種、宗教、思想、性別)が違えば、対立、抗争を生むのは、人間の業(本能)であり、得意技なのですから。個人のいさかいとジェノサイド、原理はほぼ同じと考えます。

    ぬいぐるみの奪い合いしている姉妹。喧嘩している。妹、泣いている。
    お母さん:早苗ちゃん、おねえちゃんやねんから、さつきちゃんにプーさん貸してあげなさい!
    早苗ちゃんは姉という属性を強制され、妹との抗争→融和を繰り返しながら成長していく。

    …文章構成なし、推敲なし、ランダムに記しました。
    一部再読参照:差別用語事典
    (1975.11.1 汐文社刊)

  • #2

    kirokuya (土曜日, 14 3月 2026 20:54)

    ロシアとウクライナ、イランとイスラエル、日本と支那……、ええ加減にしとかなアンドロメダ星人にポチっとボタン押されて、人皆〇んでまうぞ!

    ブログ主旨からはずれてしまいましたね。

  • #3

    雛澪 (土曜日, 14 3月 2026 23:48)

    >>日常会話として使っていた言葉や言いまわしが今、ハラスメントの対象になったりする。実に窮屈でたまりません。
    →→全く同感です。言葉の意味だけを捉えてタブー視するのは本当に「バカ」らしい。

    >>美しい日本語文化の破壊にもつながりかねません。
    →→同感です。危機を感じます。

    >>属性(国、人種、宗教、思想、性別)が違えば、対立、抗争を生むのは、人間の業(本能)であり
    →→違いがあるからこそ、お互いにそれを面白がったり敬意を払ったりすることで
    豊かな関係性や美しい文化が生まれるのではないでしょうか。それを区別と
    呼んでいるのではないかな?
    対立、抗争を生むのは物欲や名誉欲に毒された一部の人間の業(本能)ではないだろうか。