☆彡私が三味線を始めた日 その1

昨日88日は、私が三味線を始めた日です。ようやく13年がたちました。私が三味線を始めるに至った経緯を3回に分けてお話したいと思います。

子供の頃から三十代くらいまで、日本のものや伝統文化について私は「ダサい、暗い、堅苦しい」と思い込み敬遠していました。成人式の振袖も「いらん!」と言って買ってもらわなかったし(成人式や振袖に関しては今も疑問に思っています)着物なんて一生着ることはないだろうと思っていました。

ただ、国語が得意で文章を書くのも好きだったことから、日本語を海外の人に紹介することについては早くから興味がありました。初めての海外旅行で参加したピースボートの地球一周で、それまで戦争のイメージしかなかったベトナムが大好きになり、現地の日本語ガイド、シーさんやそのお友達と交流する中で私は日本語教師を志すようになります。

帰国してすぐ通信教育の「日本語教師養成講座」を申し込み、生まれて初めて通信講座を最後まできちんと学び終えて、国の「日本語教育能力検定」にも合格しました。経済的な理由から日本語教師の職につくことはなく、普通の会社などで派遣社員としてずっと仕事をしていますが、地域の外国人に日本語を教えるボランティアに参加したり、YMCAで研修を受け、ボランティアとしてミャンマーの日本語学校に短期派遣されたりと、日本語教育の世界にもちょこちょこと触れたりはしてきました。

そして三十代の半ば、青年海外協力隊員を目指すことを決めたのです。二十代の頃に一度は協力隊に興味を持っていましたが、その時はまだまだ夢や目標より自分の身の回りの生活が大切だったことから応募していませんでした。そして年齢制限ギリギリになってやはり挑戦しておきたいという気持ちが沸き起こってきたのです。

短大卒だった私は放送大学で勉強して四年制大学卒の資格を取りました。四大卒の方が派遣要請を出している国が多くなるので有利だと思ったのです。それから改めてECCの「日本語教師養成講座」に通いました。検定を持っているので必要なかったかもしれませんが、日本語教授法は通信教育で学んだだけなので420時間の正式な講座を受けておこうと思ったのです。こうして準備万端、協力隊の「日本語教師」派遣の試験に臨みました。2回目のチャレンジで合格することができ、中国吉林省の高校への派遣も内定しました。東京の日本語学校で3カ月の研修、JICA(ジャイカ。協力隊員を派遣している機関)本部で2週間の研修を終え、福島県での3カ月の合宿訓練を残すのみ! というところでなんと重大な疾患が発覚したのです。

JICA事務局に電話して、派遣の延期(最終的には辞退になってしまった)を願い出たのが福島の合宿所の入所式の前の晩、郡山市のビジネスホテルの一室からでした。次の朝、郡山市内でカレーを食べて泣く泣く大阪に戻りました。もう私の制服もグリーンパスポート(公的機関の職員や派遣者が所持するパスポート。ワクチンとは無関係!)も用意されていただろうに、事務局の人もビックリです。でも渡航前に病気がわかったことは不幸中の幸いといわなければなりませんね。

 ちなみに、今ピースボートでは世界一周クルーズ船を毎年数便ずつ出していますが、ピースボートの地球一周第1回の船(オセアノス号・ギリシャ船籍。ピースボート航海の数か月後、海のもくずと消えた)に乗ったことが私の自慢です。東北旅行のおり、ユースホステルで一緒になった女の子が地球一周のことを教えてくれたのですが、その子は諸事情で航海には参加できなかったそうです。あの東北旅行がなかったら私の人生は大きく変わっていたでしょう。                            <その2に続く>

 

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コメント: 2
  • #1

    マリコ (月曜日, 09 8月 2021 20:09)

    みゆきさんのブログには毎回心打たれます。
    体調はもう大丈夫なのですか?
    いつもお元気そうに拝見するので�

    大きな素敵な夢ですね^ ^そんなにあちこち旅もされてたなんて、、凄い積極的で羨ましいです。

    勉強家で前向きな姿、見習いたいです^ ^

  • #2

    雛澪 (水曜日, 11 8月 2021 00:37)

    マリコさんありがとう。
    病気は約半年で完治しもう15年以上たちますがすっかり元気です。
    改めて半生を振り返ってみると、まあまあドラマやん、と思うよ。
    それにしても、三味線はいつ出てくるのかな~って感じですね(笑)